<宗派について>
仏教と一口に言っても、皆さんの近所のお寺を見てもわかるように、
真言宗とか浄土宗とか、色々な宗派があることはご存知だろう。
著名人の方々も色々な宗派に分かれている。
ちなみに、石原裕次郎は曹洞宗。
美空ひばり、芥川龍之介、宮沢賢治は日蓮宗。夏目漱石や島崎藤村は臨済宗。
ところで今田さん、ご実家はお寺だそうですが、何宗のお寺だかご存知ですか?もちろんご存知ですよね、正解は「日蓮宗」。
さて現在、日本の伝統的な仏教には10以上の宗派がある。
それらの宗派が、さらにいくつも枝分かれしているので、その派閥は160にも及ぶという。

ちなみに、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、浄土宗か、浄土真宗か、時宗。
座禅を組めば、臨済宗か曹洞宗。
そして「南無妙法蓮華経」は、日蓮宗である。
しかし、なぜ同じ仏教なのに、宗派がたくさんあるのか。
そもそも宗派とはいったい何なのだろうか?
そこにこそ、教科書に載らない日本人の謎が隠されているのだ。
それではまず、仏教の宗派とは何なのか、専門家に聞いてみると。
仏教研究家 正木晃さん:
「宗派というのは、お釈迦様の教えに対する学説の違いから生まれたんです。」
何?宗派とは学説の違いだった?!
今を遡ること2000年以上も前の、インドのお釈迦様が起源の仏教。
修行をすることで悟りを開き、人々を苦しみから救うというもの。
それが中国に伝わって来た時、お釈迦様の教えをどう解釈するかという研究が頻繁に行われたという。
中国の僧1:私はお釈迦様の教えは心の中にある、それ以外には何もないと考えております。
中国の僧2:いやいやお釈迦様が言うとるのは、そういうことではないんですよ。真理はすべて無限なんですよ。
中国の僧3:私はそうは思わないなぁ。戒律が大事、戒律を守ってこそ成仏できるんです。
そう、お釈迦様の教えをどう解釈するかで、見解が分かれていたのだ。
これを、大変失礼ながら、ラーメンに例えると…
麺をどう作るかにこだわる一派がいれば、
スープこそ命!とその味を追求する一派もいる。
そしていやいやラーメンの味はすべてのバランスである、と考える一派もいる。
というように、目指すのはおいしいラーメン、目標は同じなのだが、
そこに至る取り組み方が違う、というように、
仏教においても、目標は同じなのだが、
お釈迦様の教えをどう解釈するか、その違いでいろんな宗派が生まれることになったのだ。
それは、教典に書かれたお釈迦様の教えが、多岐に渡っており、いろいろな解釈が可能だったからだ。
最先端の宗教として、仏教が公式に日本に渡ってきたのは、538年だと言われている。
その時、時の朝廷に金の仏像が献上された。すると、時の権力者は…
小島よしお扮する権力者:
「これはこれは美しいこと。いや〜!カッコいいではないか!」
それは30cmにも満たない小さな仏像だった。が、仏像というフィギュアがよかった。
もともと日本にいた神様は、自然に宿ると考えられていて、
埴輪や土偶はあったが、神そのものを形にしたものはなかった。
山や森などの自然そのものが神だった。だから神様に形はなかったのだ。
それが、ピカピカの仏像という、いわばフィギュアに形を変えて目の前に現れた。
これはわかりやすい!
その衝撃は、村の演芸場しかなかったところに、突然ミュージカルがやってきたようなものだった!
仏教研究家 正木晃さん:
「それまで、日本の神々というのは、姿形をはっきり持っていませんでした。
そういう神々よりも、ずっと力がある、パワフルな神々として仏たちを受け入れた。
それが大きな原因だったろうと思います。
木や岩に宿る中に、ほのかに見えていたものが、バーンと出てくるわけですから、
その威力たるや凄まじいものだったと思います。」
仏像には、御丁寧に「国家の平安に効きます」という効能書きもついていた。
中央政権として勢力を築きつつあった大和政権は、これを利用しようと考えたのだ。
こうして日本人に徐々に気に入られていった仏教。
そして聖徳太子が政治の実権を握ると、仏教に基づいて国造りを進める。
聖徳太子は仏教の政治に大々的に取り入れる。
法隆寺や四天王寺が建てられたのは、そのため。
仏教研究家 正木晃さん:
「日本の神々の世界は、哲学や体系というものを持ちませんでした。
しかし仏教の場合は、高度な体系というものを持っている。
今流に言うと、システマティックなわけです。
ですからそのシステムを使うという考え方は、
国を造っていく上で、大変有効だったろうと思います。
例えば、真ん中に大きな仏様がいらして、これが世界の中心を司る。
で、世界を支えているという考え方は、
天皇を中心に、古代国家を造ろうとした日本には、とても向いていたと思います。
天皇を中心にする国を造っていくことと、
中心にある偉大な仏を祀るということが、
ほとんどイコールの関係になったんだろうと思うんです。」
仏を祀るから国を護って欲しい、という考えの元、
聖武天皇と光明皇后は、全国に国分寺、国分尼寺を建立。
さらに東大寺や法華寺が建てられた。
そして東大寺は、仏教の総本山として、教典を研究する場所になる。
お寺の中は研究所だったのだ。
僧侶は政府のブレーンとして、お寺の中でいくつもの宗派を分析して、国の政治に役立てていたのである。
今で言う国立研究所、あるいは、もっと言うと、東京大学のような国立大学を全部合わせたみたいなものだ。
だからこの時代、寺院のお坊さんは、国立大学の教授みたいなもので、民間に布教などしなかった。
仏教は民衆のものではなく、国のものだったのだ。
しかし奈良時代の末期、権力を手に入れた寺の内部に、腐敗が生じる。堕落した僧侶が現れるようになってしまった。
仏教研究家 正木晃さん:
「いわゆる悪僧と言われている人たちが出て、政治を混乱に陥れたと言われています。」
これはいかん!ということで、行われたのが、平安京遷都なのだ。
いきなり都を腐敗した奈良から京都に移して、一回お寺をチャラにしたのだ。
この混乱期に登場したスーパースターが、
本場中国で仏教を学んできた、帰国子女のお坊さん、
最澄と空海である。天台宗と真言宗の誕生だ。
彼らが唱えた仏教は、仏が国を護ってくれるという考えを受け継ぎながらも、
信仰によって民衆の救済も目指すと言う実践的なものだったのだ。
つまり、国家のためだけの仏教から、普通の人の魂を救う仏教へを変わって行ったのである。
仏教研究家 正木晃さん:
「鎮護国家という形で、国家を安全保障すると同時に、人々の救済にもあたる、
この二点が非常に偉大な点で、
この二人によって、日本の仏教の基礎が築かれたと言われています。」
ということで、最澄や空海の教えは、政権も支えるし、民衆にも広く伝わるものになった。
この二人のスーパースターに関しては、後でじっくり紹介するが、
それはさておき、最澄の時代からおよそ300年経った平安末期、
天台宗や真言宗はまだエリート学問だった。ちと難しかった。
そこへ現れたのが、法然という僧だった。
カンニング竹山扮する法然:
「これからの仏教はこれじゃ!南無阿弥陀仏じゃ。
これさえ唱えておれば、もう厳しい修行なんぞいらん。
皆、極楽浄土へ行けるのじゃ!」
法然の教えは、ちと難しい天台宗や真言宗と違い、サルでもわかるハウツー本のような仏教だった。
これが「南無阿弥陀仏」と唱え続ければ誰でも救われるという浄土宗である。
「南無」とは「どうかよろしくお願いします」という意味だ。
つまり、「阿弥陀様、どうか私を極楽浄土にお導きください」という念仏である。
仏教研究家 正木晃さん:
「それまでの仏教は、例えば病気になったら薬師様であるとか、
時と場合によって拝む対象を変えていたわけです。
南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀様だけ、
たった一人の仏、たった一人の神、それ以外はダメって考え方ですから、
まさに一神教的です。」
この時代は、貴族の力が衰え、代わりに武士が台頭しつつある動乱期。
釈迦の教えも届かなくなるという末法思想が漂っていた。
不安なので、苦しい現世ではなく、死後の世界に、人々は救いを求めていたのである。
そんな時に、念仏だけを唱えれば救われるという法然の教えは、圧倒的に民衆の心に響いた。
さらにそれを進めたのが、親鸞の浄土真宗である。
これまで僧侶は結婚してはいけないとされていたにも関わらず、
親鸞は自ら妻帯し、悪人でも救われると説いたのだ。
いわゆる悪人正機説(あくにんしょうきせつ)というものである。
自分は仏になど救われない、と諦めている人々には、圧倒的な教えだった。
ただし、悪人の意味を誤解しないで欲しい。
仏教研究家 正木晃さん:
「悪人というのは、我々が考える犯罪者という意味ではなくて、
私たちはみな悪人だ、という認識に基づいて、その認識を持った者こそが救われると。
自分は善人だから偉いだろうとか、自分は救われるだろうと思っている人は救われない。
自分が悪人だという認識を持って、ひたすら阿弥陀様にすがって救われたい、
そう思っている人が救われる、という意味です。」
修行抜きでも念仏さえ唱えれば、誰でも極楽浄土へ行ける、
その簡単なやり方が民衆に広まり、
それまでエリート層の宗教だった仏教が、民衆にどんどん広まっていったのだ。
そして最澄や空海が仏教の基礎を日本に築いた時代から400年も経った鎌倉時代、
仏教にさらに大きな変化が起きる。
今や仏教をイメージすると必ず浮かんでくる「禅」の教え、
禅宗は鎌倉時代に広まった。
そのキーマンが栄西と道元である。
宗に渡って仏教を学んだ栄西たちは、当然、日本にないものを持ち帰ってこようと考えた。
それが「禅」である。
座禅を組むことによって悟りを開くという教えだ。
これは400年前にはなかったニューウェーブだった。
北野武が日本映画を変えたのと同じように、仏教の常識を打ち破ったのである。
もう一度ラーメンに例えると…
禅宗は、東京ラーメン、札幌ラーメン、九州ラーメンなど、
いろいろ出て来た後に登場した「つけ麺」みたいなものか?
ちなみに栄西は臨済宗、禅問答で悟りを開く。
道元はゆく年来る年で有名な永平寺の、バシッと肩を叩かれる曹洞宗である。
しかし、栄西が京に入って布教しようとすると、これまでの仏教が敵対心を隠さなかった。
京都、奈良の仏教は栄西にとって、大きな抵抗勢力だった。
そこでやむなく、栄西は、京都、奈良の影響力が弱い、鎌倉へ向かう。
すると、鎌倉で政権を握る、武士の倫理観に、
ニューウェーブ宗教、栄西の禅宗は大きく受け入れられた。
仏教研究家 正木晃さん:
「当時は大流行していたのは、極楽浄土へ行こうという阿弥陀信仰です。
これは阿弥陀様の力にひたすらすがる、いわゆる他力信仰です。
これに対して、禅宗は自分の心身を鍛え上げることによって、自らの力で悟ろうと考えたわけです。
当時、武士にとって、これはまったくピッタリの考え方で、
何しろ武士ですから、言い換えればファイターなわけですね。
ですから、いつ有事があるかわからない。
でもそういう時に混乱したら困るわけで、
平常心を保って、いつ何時でも対応できる、
そういう心と身体を作るために、禅が役に立つ、そう信じられていたのです。」
鎌倉幕府にも、ニューウェーブの宗教を使いながら、京都に対抗していこうという意思があったに違いない。
これを広めれば、武士を束ねるのにとてもいい宗教になるぞ!
こうして鎌倉五山をはじめとして、臨済宗の寺が建てられ、禅宗が広く武士に広まっていくことになる。
かつて天台宗が、国のエリート宗教だったように、
鎌倉武士たちにとっては、禅宗がエリート宗教になっていったのだ。
見れば、武田信玄も禅宗、上杉謙信も禅宗、そして織田信長も禅宗なのだ。
有名大河ドラマ方面は、み〜んな禅宗である!
武士たちにとって、禅宗は圧倒的な思想だった。
実はみんなが知っているこんなお寺が、みんな禅宗の臨済宗である。
金閣寺、銀閣寺、そして枯山水で有名な龍安寺(りょうあんじ)。
能や華道、茶道という文化も、禅宗から生まれてくるのだ。
一方、来世で人を救おうとする禅宗に対し、
現世で救うべきだと説いたのが、日蓮の日蓮宗だった。
日蓮は法華経という教典の中にこそ最高の真理があるとした。
南無妙法蓮華経と唱え、教典を信じることで救われると説いた。
そして強烈な個性によって教えを広めていったのだ。
ところが、経済力が増えた寺は、権力に対抗する武力を持つようになる。
一揆を起こしたりして、大名たちも手を焼くようになってしまった。
これでは大変と、寺を武装解除したのが豊臣秀吉である。
そんな日本が、全国みな仏教徒になる時代がやってくる。
それが江戸時代だ。
徳川幕府は宗教反乱を怖れた。特にキリシタンを排除しなければならない。
そこで、徳川家綱の時代に始まったのが寺請制度。
寺請制度とは、
「国民は、身分・職業に関係なく、住まい近くの寺に住民登録をする」というもの。
これは、幕府にもお寺にもメリットがあった。
幕府は役人を使わずに手間が省けるし、お寺は確実に信者を得る事ができる。
住民票はお寺が発行。
出生届、住所変更、結婚、出稼ぎや旅行の際にも、必ずお寺から証文をもらわなければならない。
こうすることで、全国民を仏教という網で囲い込み、
キリシタン信者や、反乱分子が抑え込まれることになった。
今や、葬式と言えばお寺だが、江戸時代にはこれが大きな意味を持っていた。
誰かが死ぬと、キリシタンではないことを確認するのもお寺の役目。
今で言う役所の仕事をお寺がやっていたのだ。
お寺は葬式と墓地をしっかり管理し、国民を把握しておく役目を担っていた。
だから、ある地域に曹洞宗のお寺があれば、その地域の住民は、みんな曹洞宗。
隣に臨済宗のお寺があれば、その地域の住民は、みんな臨済宗だった。
小島よしお扮する町役人:(町人に向かって)「ここに引っ越して来たの?だったら、今日から臨済宗。」
竹山扮する町人:「え?ちょっと待って下さい、うちは代々浄土真宗でして…」
町役人:「そんなのかんけ〜ねぇ!」
町人:「それ2008年とかにやったギャグでしょ…」
どの宗派かなど関係なし!問答無用の全員登録制だったのである。
地域の子供を預かって勉強も教えた。文字通り寺子屋である。
お寺がこういう存在になったおかげで、宗派同士の争いもなくなり、今日のお寺の土台が作られた。
その制度が大きく崩れたのが明治時代。
明治政府は、新たな制度で戸籍を登録するようになった。
お寺はお役ごめんとなったわけだが、それでも墓の管理をごっそり変えるわけには行かない。
今、お寺にお葬式とお墓が残っているのは、こういう江戸時代の思惑があったからだった。
たくさんの宗派が日本に残っているのは、このような歴史があったからなのである。