<最澄と空海>
最澄と空海、日本人なら誰もが聞いたことのある偉大な僧侶。
1200年に渡って、日本の仏教に影響を与える、超ビッグネーム!
その存在を専門家はこう語る。
種智院大学教授 頼富本宏さん:
「彼らがいなければ、日本仏教というのは、かなり変わった形になっていたのかもしれません。
日本仏教の一番元になったような、非常にスケールの大きい仏教を、
平安時代初期に広めたということでしょうね。」
では彼らは一体何が偉大だったのか?
まず教科書の記述を調べてみると、
最澄は天台宗を開き、空海は真言宗を開いた。
共に遣唐使として唐に渡り、日本で仏教を広めた、とある。
同じ時代、同じ分野に並び立つ二人、しかしその性格はまったく対照的だった。
秀才肌でまじめな最澄、天才肌で外交的な空海。
例えるならば、ふたりはV9時代の巨人にいた王と長嶋、漫才界のやすしきよしのような存在だったのか?
そんな最澄と空海が日本仏教に残したもの、そこにこそ教科書に載らない日本人の謎が隠されている!
謎① 二人は、元祖「尾崎豊」だった?
謎② 二人が日本に持ち帰った密教とはどんな教えなのか?
謎③ 仲の良かった二人が決別したとんでもない理由とは?
謎④ そして二人が今の日本人にもたらしたものとは?
まずはこれ、 二人は、元祖「尾崎豊」だった?
767年に近江の国で生まれた最澄は、19歳の若さで、年間10人しか認められない朝廷の正式な僧侶に。
超エリートコースを突っ走っていた彼は、まさに仏教界の若きスーパースターだった。
一方、7つ年下の空海は18歳で奈良に行き、キャリア官僚になるために、猛勉強の日々。
だがこの時は、まだまったくの無名だった。
地位の異なる二人だが、奇しくもこの後、彼らは共にとんでもない行動に出る。
それは、「ドロップアウト」。
それまでに築き上げたすべてを、投げうってしまったのだ。
最澄は僧侶になって間もなく、法華経などの研究に没頭し、比叡山にこもってしまう。
一方、空海も奈良を離れ、すべてを投げ打って山にこもり、仏教の厳しい修行に入る。
一体、二人に何があったのか?
種智院大学教授 頼富本宏さん:
「当時の仏教はどちらかというと、位とかお寺を建てることが目的だったようなところもありましたので、
そういうところにちょっと嫌気がさしたのでは。
自分の好きなことができる、そういう仏教を求めて山にこもったのではないでしょうか。」
最澄と空海が青春時代を送った、奈良時代後期、
僧侶として出世することが社会的にもステータスになった。
だが、僧侶が政治に介入することが増え、世の中は混乱。
また、貴族たちの脱税のために寺院が利用されるなど、堕落の一途をたどっていた。
そんな世の中に嫌気がさした、最澄と空海、
ふたりが社会に反発するその姿は、まさに、名門高校を中退して反逆のカリスマとなった尾崎豊!
そんな中、堕落した奈良の都から、京都に都を遷した桓武天皇は、
新しい宗教とスターが必要だと考えた。
そこで、比叡山にいた最澄の噂を聞きつけるや、朝廷の重要な役職に任命し、天台宗を開く事を認めた。
ドロップアウトした最澄は、再び主流に戻ってきたのだ。
そして、それぞれ厳しい仏教修行を重ねた二人は、やがて再び共通の思いを抱く。
「そうだ!唐に行こう!」
当時の唐は様々な文化の最先端だった。
日本は遣唐使を通じて、新しい仏教を学んでいた。
日本だけで仏教を極めるのに限界を感じた最澄と空海は、
野球選手がメジャーリーグを目指すように、唐を目指したのだ。
804年、最澄38歳、空海31歳の時、
これまで接点のなかったふたりは、奇しくも同じ遣唐使の一員として唐へ向かうことに。
この頃、桓武天皇に認められていた、超有名人の最澄は、旅費もすべて無料、しかも通訳付きの特別待遇。
一方、まだ無名だった空海は、長期滞在が義務づけられた、その他大勢の留学僧だった。
種智院大学教授 頼富本宏さん:
「空海さんはですね、その時までに、正式な僧侶の手続きをしておりませんでしたから、
急遽慌てて手続きをして、遣唐使船に飛び乗ったという形ですから、
残念ながら、扱いは、その他大勢というか、一留学僧だったんですね。」
そんな空海が、長期間の留学費用をどのように稼いだのかは、今だに謎に包まれている。
ついに交わり始めた最澄と空海。しかしこの中国行きが、後にふたりの因縁を生むことに。
空海は、2年あまりの期間で、驚異的な活躍を見せる。
彼が目を付けたのが、当時最先端と言われていた「密教」。
まずは、難解な古代インド語であるサンスクリット語をすぐさまマスター。
さらに、密教の教典や曼荼羅などのお宝をゲット!
そしてわずか2ヶ月で、最高権威の僧侶から、密教のすべてを受け継いだ。
日本で埋もれていた天才は、世界に飛び出す事で、ついに花開いたのである。
一方、最澄は視察目的の短期留学僧の悲しさか、
当時世界的に主流だった、天台宗の奥義をマスターしたものの、
もともと滞在期間が決まっていたため、一年足らずで帰国。
それゆえ、密教に関しては、不完全なままだった。もっともっと学びたかったにも関わらず。
日本のスーパースターは、すでに自由に学ぶことすらできなくなっていたのである。
種智院大学教授 頼富本宏さん:
「段々と、密教というものが大きな力を持っているという情報が、日本にも入ってくるようになりました。
日本では天皇が交代して嵯峨天皇になっていたのですが、天台宗もいいんだけど、今流行は中国密教だ、と。」
ふたりの帰国後、最澄を信任していた桓武天皇が亡くなり、嵯峨天皇が即位。
すると、嵯峨天皇は、密教をマスターした空海に、仏教で国家を護る役目を任せることにした。
またたく間に、その名を天下に広めた空海は、エリート最澄に、ついに並んだのである。
そんなある日、
中国で密教を満足に学ぶことができなかった最澄は、
プライドを捨て、7つ年下の空海のもとを訪れた。
小島よしお扮する空海:「どうしました最澄さん。」
竹山扮する最澄:「空海さん、私に密教を教えて頂けないでしょうか。」
空海:「うん、いいよ。でも、弟子入りよ?」
最澄:「え?」
空海:「え、じゃなくて。いやならいいよ。」
最澄:「かしこまりました…」
なんと、スーパーエリートの最澄が、まだ格下であった空海に弟子入りすることに。
元来努力型の秀才であった最澄は、教典を拝借し、真摯に密教を学んでゆく。
空海もそんな姿に感銘を受け、お互いが尊敬しあう仲に。
だが、この後二人は、ある事件をきっかけに、袂を分かってしまう。一体何が起きたのだろうか。
と、その前に!
エリートの最澄が頭を下げてでも学びたかった密教とは一体、どんな教えなのか?
密教とは、つまり秘密の仏教。
簡単に言えば、大日如来と一体化することを目指したものだが、
それまでの仏教が教典によって広くその教えを伝えようとしたのに対し、
密教では師匠から弟子へ口伝えで奥義が伝えられる。
例えるならば…密教とは、老舗鰻やの秘伝のタレのようなもの。
元の材料は、醤油、みりん、酒などだが、
作り方通りに作っても、秘伝のタレにはならない。
師匠から弟子に受け継がれ、長年の鰻のうまみが染み出て、紙には書けない秘伝のタレが出来上がる。
密教も、教典だけでは伝えられない、やはり師匠から弟子に直接伝えなければならないのだ。
そんな密教は、最近の仏像ブームに一役買っている。
貢献したのは、曼荼羅の存在。
言葉で表すのは難しい密教だが、その世界観を見た目で示す方法が生まれた。
それが曼荼羅だ。あなたも目にした事があるだろうこの曼荼羅、一体何を表しているのか?
種智院大学教授 頼富本宏さん:
「もともと原点はですね、見えない世界の仏を見えるようにして我々に教えて下さるという発想なんです。」
そう、仏のグループ分けは、曼荼羅によって、初めて日本人にもたらされた考え方だったのだ。
例えるならば…曼荼羅とは、たけし軍団の相関図のようなもの。
ビートたけしを中心に、ガダルカナルタカやダンカンがいて、その後輩に浅草キッドがいる、など。
人間関係が一目瞭然となる。曼荼羅は見た目で表すことで、誰にでもわかりやすく密教の世界観を教えたのだ。
こうして庶民の拝む対象が明確になり、仏像は平安時代に一大ブームになった。
日本に多くの仏像が残っているのは、空海と最澄が伝えた密教と曼荼羅が大きく影響しているのだ。
だが、この後、最澄と空海はけんか別れしてしまう。
そのきっかけとなった些細な理由とは?
密教を通して良好な関係を続けていた偉人ふたりに、決別の時が訪れる。
一体なぜか。意外にもそれは些細なことがきっかけだった。
最澄:「ねぇ、ちょっとその密教の本、貸してくれない?」
空海:「ダメダメ!これ超レア本だから。修行の足らない最澄さんにはまだ早いわ。」
最澄:「何言ってんのよ、オレだって天台宗の始祖として忙しいんだよ。そんな時間あるわけないでしょ。貸してよ〜。」
空海:「なんだよ、密教の何もわかってないくせに!」
なんと密教の教典の貸し借りで仲違い!
それは、密教の秘法を学んでいない最澄の申し出を、空海が拒絶したためだった。
最澄の弟子:「やっぱり最澄さんより、今の時代空海さんですよ!間違いない!」
さらに、その後、空海のカリスマに魅せられた最澄の弟子が、空海に弟子入りしてしまう。
これらを機に、日本の仏教をリードしてきたふたりの関係は断絶したと言われている。
種智院大学教授 頼富本宏さん:
「全部対立したわけじゃないんです。
ただ、難しい点はですね、密教というのは、教典を写すとか聞くとか、頭の中で考えるだけじゃなくて、
自分で実践してみないと、ということで残念ながら最澄さんは非常に忙しかったのでそんな暇はなかったと。
だから最澄はその時点で、天台宗の中に密教的な要素を入れるのはやめようと。
密教に対する両者の考え方が違っていたと。それぞれの信じる道を歩き始めたと。」
仏教の二大勢力となった最澄と空海。
二人が今の日本人にもたらしたものとは。
最澄が開いた比叡山延暦寺は、仏教の総合大学と言われ、その後もスーパースターを数多く排出。
浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)、日蓮宗(日蓮)、時宗(一遍)などは、もともと天台宗から派生したものである。
一方空海は、そのカリスマ性ゆえに、自らが信仰の対象となった。
今年も多くの初詣客で賑わう川崎大師や西新井大師、佐野厄除け大師の「大師」とは
弘法大師、つまり空海のことなのである。
また空海は、「弘法も筆の誤り」という諺を残すほどの書の達人であり、
さらに漢詩の文集や解説書などを記すなど、仏教以外にもマルチな才能を発揮した。
そして空海は、布教とともに、全国を行脚し、社会貢献を行った。
空海が見つけたといわれる温泉は全国各地に存在している。
さらに治水事業として行った、讃岐の水がめ「満濃池」は今も利用されている。
また四国の八十八カ所巡りは、修行中の空海が八十八の寺院を遍路したことから生まれたと言う。
努力を重ね多くの弟子を育てた最澄、天才的な才能で自らがカリスマとなった空海、
二人は、それまで高貴な人間の専有物だった仏教を広く民衆に広めることに成功。
それこそが彼らの最大の功績。仏教の日本化である。
日本人の仏教にまつわる考え方や生活習慣は、
最澄と空海がいなかったら、まったく違ったものになっていたかもしれないのだ。
<プロローグ>
<仏教の謎>
<日本語の中に隠れた仏教>
<宗派について>
<最澄と空海>
<怨霊と仏教>
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