「つぶやき」カテゴリーアーカイブ

孤独感はどこからやってくるの?

一緒に仕事をしてきた仲間の訃報が入りました。
ガンでした。
ここ数年、よくなったり悪くなったりを繰り返していましたが、
きっと、奇跡を起こして復帰してくれる、と
心のどこかで信じていたので、かなりショックでした。

絶対に涙なしには見送れない、
そう思って参列したのですが、
なんだか泣けなくて…
今にも笑って歩いてきそうな気がして…

でも、
実はもっとショックだったことがありました。

葬儀には知った顔が、遠くからもたくさん集いました。
葬送会館には入りきれないほどの人がいて、
その中には、本当にたくさん知った顔があるのに、
なぜか、クリキンディ、強烈な孤独感を感じてしまったんです。

親しく言葉を交わす人も大勢いたのに、
「あ、ここは私のいる場所じゃない…」って感じてしまうのです。
それが辛くて涙が出てくるのです。
明らかに、故人との別れで感じる涙ではありません。

なんなんでしょうね…

それからしばらくの間、
あまりの落ち込みに、動く事ができませんでした。

まぁ、私が孤独感を感じる理由は、ひとつ思い当たるのですが、
それにしても、落ち込み過ぎじゃね?自分。

もしかしたら、
そんな私の心の隙間に、
誰かが同調して乗ってしまったんでしょうか。

あああ…
どうやったら浮上できるんでしょ…?

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秘密のケンミン?コクミン?ショー

秘密のケンミンショーという番組、結構好きでよく見ていました。
(最近は時間もないし、あまり見てないんですが…)

本当にところ変われば、食べるものも、習慣も、いろいろ違うものなのね〜、
と思います。

つい先日、あるところに住む姉の家を訪ねたのですが、
そこでは、
「毎晩、雨戸を閉める」習慣があると知ってびっくり。

クリキンディが現在住んでいる地域では、
あまり雨戸を見かけません。

うふふ、あなたのお住まいの地域はいかがですか?

また、カナダへのホームステイの経験のある友人が、
「ステイ先では、食器を洗う時に、泡がついたまま、水切りをして、乾いたらそのまま使っていた」
という話を聞かされ、それもまたびっくり。

自分の常識の中では、
「洗剤は、界面活性剤が入っているから、身体によくないもの」
と思っているので、
なぜ水を使って泡を流さないのか不思議です。

いろんな人に聞いてみたところ、
アメリカ留学経験のある友人から、有力な説が出てきました。

日本人は、
「水道からきれいな水が出てくると思っている。」 が、
アメリカ人は、
「水道は、塩素とその毒で死んだ菌がウヨウヨの水。」
だと思っている。 

だから、合成洗剤を選ぶのか、菌がいっぱいの水を使うのか、
という選択になってしまうのだとか…

もちろん、
日本国内でも、県によって、様々な常識があるわけですから、
カナダやアメリカのすべての家庭で、このように考えているということはないでしょう。

それでも、日本人は「水道の水はきれい」という常識に基づいて生きている、
ってことがよくわかります。

「アバター」というツール(自己啓発系と言っていいのかな?)には、
「透明な信念」という言葉があるのですが、
まったく、こういうことなんだな、と思います。

話をしていて、どうしても理解し合えない、なんて時には、
もしかしたら、お互いの「透明な信念」がまったく違う、ということもあるんだろうなと思います。

クリキンディと、奥目王子(興味のある方はカテゴリ<アーリマン>をどうぞ。)は、
きっと、全然違うんですよ。
そうですよ…。
はいはい…。

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助けないでね

親友のDと、いろいろおしゃべりしていたら、
死ぬ時の話になりまして…

クリキンディ「私が死んだら、遺骨は海じゃなく、山に撒いてね」
D「じゃ、私は海にお願い」

クリキンディ、以前から、「お墓」とか「お葬式」とかのシステムに疑問を持っていたんです。
死んだら、肉体がないんだから、お墓という三次元的なスペースは必要ないだろう、とか
生きている人より、死んだ人の方が、
圧倒的にたくさんいるし、これからも増える一方なんだから、
そのために、次々にお墓を作ったら、地球上に、生きてる人が、暮らすスペースがなくなるし、
とか思ってます。

それと、生前、お経を唱えたこともない人が、
会ったことも話したこともない、お坊さんのお経で送ってもらうって、どうなんでしょう?

戒名のシステムについても、なんだかよくわからなかったのですが、
葬式は、要らない (幻冬舎新書)
を読んで、いろいろ謎が解けました。

まぁ、そういうわけなんで、
リアルにクリキンディのことを知っている人は、よろしくお願いします。

さて、もひとつ、皆さんにお願いです。

もしも、クリキンディが、突然の病気や事故で倒れたら、
絶対に、延命治療をしないでいただきたいのです。

どこからが、延命治療なのか、という難しい問題もありますが、
とりあえず、安静に寝ていて、自力で回復するようなら、
私の寿命は残っている、ということだと判断して欲しいのです。

でも、手術をしないと助からない、とか、
呼吸器をつけないと、とか、
輸血しないと、とか、
そういう状況であったなら、
そのまま静かに逝かせてください。

なぜなら、
そのような延命治療によって生きながらえたとしても、
結局は、まわりに負担をかけるだけのような気がするからです。

これは、本当に難しい問題だと思います。

どんな状態であっても、
生きてさえいてくれたらそれでいい、
そういう考え方があることはもちろん理解しています。

ですが、もし自分が介護される側だとしたら…
やっぱり辛くてたまらないような気がするのです。

世の中には、
長い長い介護生活の末に、家族を殺めたり、自分の命を絶ったりする人もいると聞きます。

クリキンディの母も、
親友Dの母も、
だいぶ長いこと、老老介護の毎日なのです。

クリ「私に、絶対延命治療を施さないでね」
D「私も、お願いね」

そう誓いあったのでした。

いざ、その時がきたら、
ついつい、助けたくなってしまうかもしれない。

だけど、
それは元気に生きている側のエゴなのかもしれないなぁと思うのです。

またいつか、考えが変わる時がくるかもしれないけれど、
今日の思いを記録しておきます。

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横断歩道の白いところだけ踏みたくなる理由

こんばんは、だいぶ体調がよくなってきて、
「普通の重傷になってきたね」と言われるクリキンディです。
せめて、普通の人並みの肩こりになりたいです。

さて、今日の素朴な疑問は、
なぜ子供たちは、横断歩道の白いところだけ踏みたくなるのか、です。

クリキンディも子供の頃、よくやってました。
「黒いところを踏んだら負けね!」とか言って、
ぴょんぴょん飛んで渡っていくんです。

他にも、床板の色の着いたところだけ踏む、とか、
板の継ぎ目を踏んじゃだめ、とか、
この色は、右足だけで踏む、とか、

友達とルールを決めて遊ぶこともありましたが、
結構、自分ひとりで、心の中でルールを決めて歩くことも多かったように思います。
大人になった今でも、
気付くと、無意識にルールを決めて歩いていたりすることも。

不思議だと思いませんか?
これってなんなんだろう〜?
もしかすると、これって本能?

例えば、
雨の日に、水たまりを避けて歩くように、
草むらで落とし穴に落ちないように、
木の橋を渡る時に、踏み外さないように、
川の浅瀬を渡る時に、深みにはまらないように、

人は、自分の身を守るために、
「同じ色に見える場所を、選んで踏んで進む」習性があるんじゃないかなぁ。
だから、
安全だとわかっていても、
ついつい、色の同じところを踏みたくなっちゃうのかな、
なんて考えちゃいました。

なぜか、よくわからないけど、
ついついやってしまうこと、
まだまだたくさんありそうですね。
皆さんは「ついついやっちゃうこと」どんなことがありますか?

人気ブログランキングへ←シリーズ化の予感が…

筋トレ週報!

こんにちは、まもなく夏至を迎えようというのに、
こたつから出られず、震えているクリキンディです。

来週の「筋トレ週報」が、ちょっとうれしい内容だったので、
覚え書きとして引用しておきたいと思います。

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
なにかとても純粋でまっすぐで大きなものに、
触れることになりそうです。
それは、誰かの気持ちかも知れませんし
貴方が目指していきたい夢なのかもしれませんし
正当な報酬なのかもしれませんし
愛情なのかもしれません。
いずれにせよ、それは向日葵のように背筋がまっすぐで
澄んだ光を放っています。

今週いっぱいで、
貴方は去年の秋くらいから続いてきた闘いを
ひとまず、一段落させることになるだろうと思います。
この「一段落」は、その最終段階に
上記のような、透明で純粋な何事かに触れる
というプロセスを内蔵しています。
これがどんなことなのか
具体的には、私にはわからないのですが
これに触れることによって
新しい世界に飛び込んでいくためのチケットのようなものが
手に入るではないかと思います。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

昨年の秋くらいから続いていた闘いって、
まったく「アーリマン」との闘いそのものじゃないっすか!

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