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穏やかな人生とアップダウンの激しい人生、どっちを選ぶ?

あらあら、なんということでしょう〜!
どじょうくん、どんなに反対されてもTPPをやるって決めてるみたいですね。
あ〜あ。
数十年後の歴史の教科書には、
2011年は平成維新の年…とか書かれちゃうんでしょうか。

人間って、本当に複雑なアップダウンの激しいことが好きなんですね。
実は、なぜかクリキンディ、とある学校の授業を数回やらせて頂くことになったのですが、
そのクラスで行った実習で、とても面白いものを見せて頂きました。

まず、クラス内を数人ずつのグループに分けて、
それぞれに役割を与えて、あるシーンを演じてもらったのですが、
演じている最中に、ほぼすべてのグループの人が感極まって泣いてしまったのです。

指定したシチュエーションは、
「結婚式で花嫁が父親に宛てた手紙を朗読する」場面。
花嫁の手紙の内容もグループごとに考えてもらいました。

まぁ、実際の結婚式でも、来客の涙を誘う場面ではあるのですが、
演技のプロでもなんでもない生徒さんなのに、
父に宛てた手紙を読んでいるうちに、本当に泣き出してしまうんです。

クリキンディも、こんな授業をやったのははじめてだったので、
予想もしない展開にちょっとあたふた…。

泣きたくなってしまう理由はいくつかあったのですが、
その中でも全員に共通していたのが、台本の中身でした。
ほぼすべてのグループの人が、
「父への感謝と幼い日の苦労話」を花嫁の手紙の台本に入れていたのです。

そう、「苦労話」です。
たとえば、子供の頃にいじめられていた自分を父が守ってくれたとか、
病気がちだった自分のために、親が毎日病院に通ってくれたとか、
なにかしらの「苦労」をネタにして、
それを乗り越えて、今日幸せの絶頂である結婚式を迎えられた、
という人生の大きなアップダウン、
こういう話がみんな大好きなんですね。

例えば、ですよ、花嫁の手紙の内容が、
「パパ、今日まで何不自由なく育ててくれてありがとう。
イケメンの家庭教師のおかげで勉強もできて、いい学校に入れました。
体操教室に通わせてもらったおかげでスポーツも万能、
パパにはブランドのお洋服をたくさん買ってもらって、
海外旅行にもたくさん連れていってもらい、
本当に幸せな子供時代を過ごせました。」
なんてエピソードだったら、面白くないですよね〜!ww

つまり、人間って、
ちょっと障壁があるくらいの人生に、本能的に憧れているのかもしれません。
「願い事は何ですか?」って聞かれた時に、
健康やお金、不安のない暮らし、などを思い浮かべる人がほとんどだと思いますが、
実は、本当に心から願っていたのは、ドラマティックな人生だったのかも?!
そして、何かしらの障害を乗り越えた時に、本当の感動と幸せを感じるのだとしたら、
今目の前にある「不幸に見えるもの」こそ、
自分の潜在意識が求めていたものかもしれませんね〜?
そうだとすれば、あとは乗り越える方法を考えるのみ!

さて、TPPや放射能問題を乗り越える方法、
クリキンディは思いつけるのでしょうかね…?w

私にとっての「大昔」

2012年が注目される大きなきっかけとなったのが、マヤ文明のカレンダーらしいですが、
マヤ文明が滅びたのって16〜17世紀頃なんですね。
「ふーん、意外と最近じゃん?」と思ったクリキンディです。

そしたらスピ友のマドレーヌちゃんから、
「え?それは”最近”って言わないでしょう〜!」と突っ込まれました。

一緒にいたトトロ氏から、
「それは”最近”だと感じる」と同意してもらい、
それならマドレーヌは、いったいいつの時代なら”最近”と感じるのか?と聞いてみたところ、

「シュタイナーが生きていた19世紀〜20世紀頃までは”最近”って思うけど、それより前は思わないな〜」

むむむ〜?
なぜ”最近”と感じる時代のものさしが違うんでしょうね?
そこで、図を描いてみんなの認識を確認してみました。
実線の部分が「歴史年表」として認識している部分で、
点線の部分がそれぞれが「大昔」と認識しているところです。


(クリックして拡大して見てね)

なんなんでしょうか、この差は……
ってか、りゅ〜いちゃんの「最近だよね?」が「地球ができた頃」って!!

いやいやこうして比較してみると面白い〜!
普段、人が「自分のものさし」「勝手な思い込み」で話をしていることがよくわかりますね〜。

今回は「時代についての認識」でしたが、
例えば「強いものと弱いもの」とか、「善と悪」とか、
それぞれの認識を比較してみると面白いかも〜!

あなたは一体いつの時代までを”最近”と感じますか?

備蓄はしなくてもいいと思う

皆さん、食料や燃料の備蓄をされていますか?
311直後は、どちらも手に入らず、
何時間も並んでようやくパンひとつと水1本やっと買えた、
なんてことが当たり前でした。
営業を開始した数少ないガソリンスタンドには、
最後尾がいったいどこのスタンドに並んでいるのかわからなくなるほど
長い長い行列ができていました。

つい先日、ガソリンスタンドを経営している友人から聞いた話。

何時間も並んでガソリンを買いにくる車のほとんどが、
「満タンにしてくれ」と言うのですが、
入れてみたら2Lしか入らない、
そんな車ばかりだったそうなのです。

つまり、ほぼ満タンに近くガソリンの入っている車なのに、
不安で不安でとにかく入れておかなくては、と思った人が多かったということです。
何時間も列に並んでアイドリングしている間にガソリン消費してるだろ!
と言いたくなったそうです。

ん〜、まぁ気持ちはわかります。
今すぐ必要でないけれど、
次にいつ買えるかわからないから、
とにかく買っておこう、
そう思った人は多かったと思います。

ですが、
「不安解消のために買い物をした人」がいたために、
「本当に今すぐ必要な人」にモノが行き渡らない、
という事態を引き起こしたのも事実なんです。

地震直後の外国メディアの報道から、
「日本人は暴動を起こさず、我慢強く列に並ぶ民族」だと称されました。
しかし、本当にそうなんでしょうか?
暴動こそ起こさないものの、
「自分さえ商品が手に入ればいい」と思っていることになんら違いはありません。
こういうのを50歩100歩って言うんでしょうね。

そもそも備蓄という考え方は、
人類が「明日食べるものの心配をし始めた」時からはじまっています。
そして、狩猟と採集の時代から、農耕栽培の時代に移り、
土地を区切って「誰かのもの」にする「所有」の時代がはじまります。

自分の運を信じられなくなり、
自分の努力のみを信じ始めます。

雀は明日食べるものの心配をしません。
クリキンディの大好きな曲に、
「His eye is on the sparrow」というゴスペルソングがあります。
どんな小さな雀にさえ、神様は気を配ってくださる、というような曲なのですが、
そこが信頼できていないがゆえに、人は毎日なにかしら不安を抱えて生きているような気がします。

これからまた大きな地震や津波が来るかもしれない、
放射能汚染のために、食べられるものがどんどんなくなっていく、
だから備蓄した方がいい、という話をよく耳にします。

クリキンディも「ああ、息子のためにもお米を買っておかなくちゃ!」と思いました。
でもね…
いろいろと突き詰めて考えていくと、
なんだかあまり備蓄に気が進まないのです。

実際に、311の時、
アウトドア好きのクリキンディの家には、
懐中電灯をはじめ、ランプやキャンドルが山ほどありました。
車はほぼガソリンが満タンでした。
しかし、車をパーキングから出せず、家にも戻れなかった私には、
なんの役にも立ちませんでした。
自分の家に食料の備蓄はありませんでしたが、
震災後にお世話になっていた家にはたくさんの食料があったのです。

生き残る運命ならば、きっと食べ物を手に入れられる。
そうでないのなら、その運命を受け入れるだけ、
どんな出来事も必然があって起こっていると思えば、
ちょっと肩の力を抜いて生きていけるような気がしませんか?

ものごとには段階がある

クリキンディは一応ミュージシャンだったりするわけですが、
お客様の前でステージ立つ、という時の気持ちには、
大きく3段階あるなぁと思っています。

最初は、誰かに見られていることが恥ずかしくて自分をうまく表現できない。
2段階目、誰に見られていてもいいや!とにかく今の自分を見てもらおう!
3段階目、見られていることを意識して、状況にあった表現方法を臨機応変に選ぶ。

この段階を順番に踏まずに、いきなり3段目に上がることはできません。
「え?簡単にできちゃうけど…?」
という人が、もしもいたら、
その人は、前世で十分に経験を積んでいますから〜!

ちょっと話は変わりますが、
「生き霊」という考え方がありますよね。
何か深い恨みのようなものがあったりすると、
勝手に「念」を飛ばして、知らないうちに相手を攻撃するとか。
攻撃された側は、なんだかよくわからないけど、具合が悪くなったり、
妙に事故に遭いやすかったりするようです。

他にも浮遊霊とか地縛霊とか水子の霊とか動物霊とか、
そういう「見えないナニカ」が、人の体調に影響を与えているという話も、
時々聞きます。
……ああ、こうしてブログに書いているだけでなんか空気が重たくなってきたし……

これ、体調だけではなく、「気持ち」にも影響を与えます。
なんだかよくわからないけど、普段は興味のないものに、なぜかすごく惹かれるとか、
妙に友人の悲しみに同調して涙が止まらないとか、
やたらハイになったり、どーんと気分が落ちたりすることもあるようです。

やっかいなことに、
「今自分が感じている気持ち」が本当の自分の気持ちなのか、
見えないナニカのせいで、それを強く感じているのか、
区別がつかないんですね。

自分でも気がつかないうちに、そんなものの影響を受けて生きるなんて、
なんだかとても無駄な時間をとられているようでイヤですよね。
なんとか、見えないものの影響を受けずに、
間違いなく自分の人生を進めないものかなぁ…

なんてことをつらつらと考えていたときに、
ふと、「これって完全なる分離」を求めているってことなんだ、と気付きました。
他人(もしくは霊)と自分は、まったく別の存在である、
だから、「思い」に影響を受け合わないし、物事の決定にも影響を受けない、
そういう生き方が「分離」ってことなんですよね、きっと。

「前世」という概念はこのブログでも何度も話題にしていますが、
本当にその前世が自分のものであったかどうかわかりません。
もしかしたら、ソウルグループの誰かが経験したこと、
その時に感じたことを、生まれる前に情報として受け取っているだけかもしれないわけです。

そうなると、「自分だけ」の経験、その時に感じた想いを、
誰にもシェアしない生き方ってどうなんだろう?
もしかしたら、「ワンネス」の考え方でいけば、
誰かの感情を、まるで自分のことのように受け取ることは、
別に気味の悪い事でも迷惑なことでもないのかもしれない…

しかし待てよ〜!
最初の話に戻りますが、
これにもやはり段階があるはずです。

ステージに上った自分(3次元の肉体を持った自分)が、
まわりからの影響を受けたくなくて、分離したくなる段階、
まわりの影響が気にならなくなって、自分のやりたいようにステージで演奏する段階、
まわりのことがよく見えていて、自分の立ち位置も把握してうまく立ち回っている段階、

なんて感じなのでしょうか?
時々、すっかり乗っ取られて、本人がどこにいるのかわからない感じがする人に出会いますが、
もしかしたら、それは最初の段階で起こることなのかもしれません。

となると、人間としてやるべきことは、
とにかく場数を踏む!
それしかないのかもしれないなぁ、なんて思いました。
机上の論理ではなく、誰かに聞いた話でもなく、
「経験」こそが財産であり、自分が死ぬときに持って行ける唯一のもの。

そろそろ「大金持ち」とか「モテてモテて困る」っていう経験もしておきたいんだけどなぁ……(笑)

隣にいる人が同じ世界に生きているとは限らない

あ〜あ、また言葉尻をとられて大臣がひとりやめちゃいましたね。
確かに「政治家」として言うべき言葉ではなかったでしょうけれど、
ひとりの人間としての素直な感想だったんだと思います。
「あやしいお米セシウムさん」の時もそうでしたが、
一般市民レベルでは、飲んだ席などで、ジョークの話題に上がりそうなネタです。

同じ言葉でも、そのスタンスによって、
話していいこととよくないことに変わるのって、なんかおかしいですね。

ところで、今自分が生きているこの世界、
みんな同じように感覚を共有していると思ったら大間違いです。

たとえば、
クリキンディは現在年老いた両親と一緒に暮らしているのですが、
見えているもの、聞こえているもの、感じているにおい、暑い寒い、など
まるで違うんだなと痛感しています。

どこかの抽き出しで、アラームが鳴っていても、両親には聞こえません。
生ゴミなどの臭いの感じ方も違います。
コップやテーブルなどの汚れも見えていません。
この汚さ、臭さは「あり得ない〜!」とクリキンディが感じていても、
両親にとっては、「何が?」という感じです。

もし、喫煙者と非喫煙者が一緒に食事をしたら、
きっと料理は違う味に感じているはずです。

オーラが見える人と見えない人が一緒にいたら、
やっぱり感じる世界はまったく違うでしょうね。

私たちの不幸は、
すぐ隣にいる人と、同じものを見て感じて、同じ世界に生きているはずだ、
という思い込みから始まっているのかもしれません。

「あり得ない〜!」
という言葉はかなり頻繁に使われますが、
その人の価値観や感覚の中で「あり得ない」だけであって、
「あり得ない」行動をしている人にとっては、
「この行動をあり得ないって言うなんて、あり得ない〜!」
なことかもしれません。

あ〜なんか紛らわしいけど、伝わってますかね?
「死の町って表現するなんてあり得ない〜」
と思っているあなたは、
もしかしたら、隣にいる人に、
「やっと危険を認めた発言なのに、やめるなんてあり得ない〜」
と思われているかもしれません。

それぞれの感覚の違いをみんなが受け入れる世界ってどんなかなぁ〜
天国みたいな感じかなぁ…
意外に退屈だったりしてね。w