備蓄はしなくてもいいと思う


皆さん、食料や燃料の備蓄をされていますか?
311直後は、どちらも手に入らず、
何時間も並んでようやくパンひとつと水1本やっと買えた、
なんてことが当たり前でした。
営業を開始した数少ないガソリンスタンドには、
最後尾がいったいどこのスタンドに並んでいるのかわからなくなるほど
長い長い行列ができていました。

つい先日、ガソリンスタンドを経営している友人から聞いた話。

何時間も並んでガソリンを買いにくる車のほとんどが、
「満タンにしてくれ」と言うのですが、
入れてみたら2Lしか入らない、
そんな車ばかりだったそうなのです。

つまり、ほぼ満タンに近くガソリンの入っている車なのに、
不安で不安でとにかく入れておかなくては、と思った人が多かったということです。
何時間も列に並んでアイドリングしている間にガソリン消費してるだろ!
と言いたくなったそうです。

ん〜、まぁ気持ちはわかります。
今すぐ必要でないけれど、
次にいつ買えるかわからないから、
とにかく買っておこう、
そう思った人は多かったと思います。

ですが、
「不安解消のために買い物をした人」がいたために、
「本当に今すぐ必要な人」にモノが行き渡らない、
という事態を引き起こしたのも事実なんです。

地震直後の外国メディアの報道から、
「日本人は暴動を起こさず、我慢強く列に並ぶ民族」だと称されました。
しかし、本当にそうなんでしょうか?
暴動こそ起こさないものの、
「自分さえ商品が手に入ればいい」と思っていることになんら違いはありません。
こういうのを50歩100歩って言うんでしょうね。

そもそも備蓄という考え方は、
人類が「明日食べるものの心配をし始めた」時からはじまっています。
そして、狩猟と採集の時代から、農耕栽培の時代に移り、
土地を区切って「誰かのもの」にする「所有」の時代がはじまります。

自分の運を信じられなくなり、
自分の努力のみを信じ始めます。

雀は明日食べるものの心配をしません。
クリキンディの大好きな曲に、
「His eye is on the sparrow」というゴスペルソングがあります。
どんな小さな雀にさえ、神様は気を配ってくださる、というような曲なのですが、
そこが信頼できていないがゆえに、人は毎日なにかしら不安を抱えて生きているような気がします。

これからまた大きな地震や津波が来るかもしれない、
放射能汚染のために、食べられるものがどんどんなくなっていく、
だから備蓄した方がいい、という話をよく耳にします。

クリキンディも「ああ、息子のためにもお米を買っておかなくちゃ!」と思いました。
でもね…
いろいろと突き詰めて考えていくと、
なんだかあまり備蓄に気が進まないのです。

実際に、311の時、
アウトドア好きのクリキンディの家には、
懐中電灯をはじめ、ランプやキャンドルが山ほどありました。
車はほぼガソリンが満タンでした。
しかし、車をパーキングから出せず、家にも戻れなかった私には、
なんの役にも立ちませんでした。
自分の家に食料の備蓄はありませんでしたが、
震災後にお世話になっていた家にはたくさんの食料があったのです。

生き残る運命ならば、きっと食べ物を手に入れられる。
そうでないのなら、その運命を受け入れるだけ、
どんな出来事も必然があって起こっていると思えば、
ちょっと肩の力を抜いて生きていけるような気がしませんか?


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