隣にいる人が同じ世界に生きているとは限らない


あ〜あ、また言葉尻をとられて大臣がひとりやめちゃいましたね。
確かに「政治家」として言うべき言葉ではなかったでしょうけれど、
ひとりの人間としての素直な感想だったんだと思います。
「あやしいお米セシウムさん」の時もそうでしたが、
一般市民レベルでは、飲んだ席などで、ジョークの話題に上がりそうなネタです。

同じ言葉でも、そのスタンスによって、
話していいこととよくないことに変わるのって、なんかおかしいですね。

ところで、今自分が生きているこの世界、
みんな同じように感覚を共有していると思ったら大間違いです。

たとえば、
クリキンディは現在年老いた両親と一緒に暮らしているのですが、
見えているもの、聞こえているもの、感じているにおい、暑い寒い、など
まるで違うんだなと痛感しています。

どこかの抽き出しで、アラームが鳴っていても、両親には聞こえません。
生ゴミなどの臭いの感じ方も違います。
コップやテーブルなどの汚れも見えていません。
この汚さ、臭さは「あり得ない〜!」とクリキンディが感じていても、
両親にとっては、「何が?」という感じです。

もし、喫煙者と非喫煙者が一緒に食事をしたら、
きっと料理は違う味に感じているはずです。

オーラが見える人と見えない人が一緒にいたら、
やっぱり感じる世界はまったく違うでしょうね。

私たちの不幸は、
すぐ隣にいる人と、同じものを見て感じて、同じ世界に生きているはずだ、
という思い込みから始まっているのかもしれません。

「あり得ない〜!」
という言葉はかなり頻繁に使われますが、
その人の価値観や感覚の中で「あり得ない」だけであって、
「あり得ない」行動をしている人にとっては、
「この行動をあり得ないって言うなんて、あり得ない〜!」
なことかもしれません。

あ〜なんか紛らわしいけど、伝わってますかね?
「死の町って表現するなんてあり得ない〜」
と思っているあなたは、
もしかしたら、隣にいる人に、
「やっと危険を認めた発言なのに、やめるなんてあり得ない〜」
と思われているかもしれません。

それぞれの感覚の違いをみんなが受け入れる世界ってどんなかなぁ〜
天国みたいな感じかなぁ…
意外に退屈だったりしてね。w


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