受け止めてくれた天使

以前にもこの話、どこかで書いたような気がするんですが、
どうも思い出せないので、とりあえず書いちゃいます。

それは、アパートの3Fに住んでいた時のこと、
夜11時をまわっているというのに、
外から子供たちの声がするんです。

なんだろう?と思って表に出てみたら、
アパートの隣にある焼き鳥屋さんで、大人たちが宴会をしていて、
それに飽きてしまった子供たちが、
駐車場で遊び回っていたのでした。

こんな時間まで子供を連れ回すなんて…と
状況を把握して部屋に戻ろうとした時、
クリキンディは大きくバランスを崩して階段を踏み外しました。

階段を降りるつもりなどもちろんなく、
部屋に戻る廊下に向かっているはずだったのに、
なぜかひとつ下の段に向かって踏み出してしまったようでした。

まじで死ぬと思いました。
走馬灯のように風景が…ということはありませんでしたが、
スローモーションで落ちる自分を感じていました。

手すりにも手が届かず、何もつかまるものはありません。
つま先より膝が前にありました。
階段で膝をしたたか打って、そのまま頭から落ちると思ったその時、
上から3段目で、身体が止まりました。

手は空をつかみ、
膝が下を向いた正座のような格好で、すごいバランスで止まっています。

そのとき、確実に「誰かが支えて止めてくれた」と感じていました。
もちろん、そこには誰もおらず、その光景に気付いた人もいません。
誰か見えない存在が、守ってくれた、と強く感じました。

しばらく膝の青あざは残りましたし、階段を降りるのが怖いと思うトラウマが
3年くらい残っていましたが、奇跡的にそれで済みました。

そのことをすっかり忘れていたのですが、
今日「天使の世界へようこそ」(著:越智啓子)を読んでいたら、
似たような事例が紹介されていて思い出したのでした。

あの時はわからなかったけれど、
助けてくれたのは、天使だったんだなぁと思います。

越智さんによれば、人には、必ず守護天使がついているのだそうです。
見えないし、わかんないし、と半信半疑に思っていましたが、
いや、いますって!絶対!
今さらですが、ずっと見守って助けてくれていたんだなぁと感謝です。
辛かったときに悪態ついたりしてほんとゴメンナサイ!
存在を疑っちゃったりしてゴメンナサイ!
これからもよろしくお願いします!

ものごとには段階がある

クリキンディは一応ミュージシャンだったりするわけですが、
お客様の前でステージ立つ、という時の気持ちには、
大きく3段階あるなぁと思っています。

最初は、誰かに見られていることが恥ずかしくて自分をうまく表現できない。
2段階目、誰に見られていてもいいや!とにかく今の自分を見てもらおう!
3段階目、見られていることを意識して、状況にあった表現方法を臨機応変に選ぶ。

この段階を順番に踏まずに、いきなり3段目に上がることはできません。
「え?簡単にできちゃうけど…?」
という人が、もしもいたら、
その人は、前世で十分に経験を積んでいますから〜!

ちょっと話は変わりますが、
「生き霊」という考え方がありますよね。
何か深い恨みのようなものがあったりすると、
勝手に「念」を飛ばして、知らないうちに相手を攻撃するとか。
攻撃された側は、なんだかよくわからないけど、具合が悪くなったり、
妙に事故に遭いやすかったりするようです。

他にも浮遊霊とか地縛霊とか水子の霊とか動物霊とか、
そういう「見えないナニカ」が、人の体調に影響を与えているという話も、
時々聞きます。
……ああ、こうしてブログに書いているだけでなんか空気が重たくなってきたし……

これ、体調だけではなく、「気持ち」にも影響を与えます。
なんだかよくわからないけど、普段は興味のないものに、なぜかすごく惹かれるとか、
妙に友人の悲しみに同調して涙が止まらないとか、
やたらハイになったり、どーんと気分が落ちたりすることもあるようです。

やっかいなことに、
「今自分が感じている気持ち」が本当の自分の気持ちなのか、
見えないナニカのせいで、それを強く感じているのか、
区別がつかないんですね。

自分でも気がつかないうちに、そんなものの影響を受けて生きるなんて、
なんだかとても無駄な時間をとられているようでイヤですよね。
なんとか、見えないものの影響を受けずに、
間違いなく自分の人生を進めないものかなぁ…

なんてことをつらつらと考えていたときに、
ふと、「これって完全なる分離」を求めているってことなんだ、と気付きました。
他人(もしくは霊)と自分は、まったく別の存在である、
だから、「思い」に影響を受け合わないし、物事の決定にも影響を受けない、
そういう生き方が「分離」ってことなんですよね、きっと。

「前世」という概念はこのブログでも何度も話題にしていますが、
本当にその前世が自分のものであったかどうかわかりません。
もしかしたら、ソウルグループの誰かが経験したこと、
その時に感じたことを、生まれる前に情報として受け取っているだけかもしれないわけです。

そうなると、「自分だけ」の経験、その時に感じた想いを、
誰にもシェアしない生き方ってどうなんだろう?
もしかしたら、「ワンネス」の考え方でいけば、
誰かの感情を、まるで自分のことのように受け取ることは、
別に気味の悪い事でも迷惑なことでもないのかもしれない…

しかし待てよ〜!
最初の話に戻りますが、
これにもやはり段階があるはずです。

ステージに上った自分(3次元の肉体を持った自分)が、
まわりからの影響を受けたくなくて、分離したくなる段階、
まわりの影響が気にならなくなって、自分のやりたいようにステージで演奏する段階、
まわりのことがよく見えていて、自分の立ち位置も把握してうまく立ち回っている段階、

なんて感じなのでしょうか?
時々、すっかり乗っ取られて、本人がどこにいるのかわからない感じがする人に出会いますが、
もしかしたら、それは最初の段階で起こることなのかもしれません。

となると、人間としてやるべきことは、
とにかく場数を踏む!
それしかないのかもしれないなぁ、なんて思いました。
机上の論理ではなく、誰かに聞いた話でもなく、
「経験」こそが財産であり、自分が死ぬときに持って行ける唯一のもの。

そろそろ「大金持ち」とか「モテてモテて困る」っていう経験もしておきたいんだけどなぁ……(笑)

隣にいる人が同じ世界に生きているとは限らない

あ〜あ、また言葉尻をとられて大臣がひとりやめちゃいましたね。
確かに「政治家」として言うべき言葉ではなかったでしょうけれど、
ひとりの人間としての素直な感想だったんだと思います。
「あやしいお米セシウムさん」の時もそうでしたが、
一般市民レベルでは、飲んだ席などで、ジョークの話題に上がりそうなネタです。

同じ言葉でも、そのスタンスによって、
話していいこととよくないことに変わるのって、なんかおかしいですね。

ところで、今自分が生きているこの世界、
みんな同じように感覚を共有していると思ったら大間違いです。

たとえば、
クリキンディは現在年老いた両親と一緒に暮らしているのですが、
見えているもの、聞こえているもの、感じているにおい、暑い寒い、など
まるで違うんだなと痛感しています。

どこかの抽き出しで、アラームが鳴っていても、両親には聞こえません。
生ゴミなどの臭いの感じ方も違います。
コップやテーブルなどの汚れも見えていません。
この汚さ、臭さは「あり得ない〜!」とクリキンディが感じていても、
両親にとっては、「何が?」という感じです。

もし、喫煙者と非喫煙者が一緒に食事をしたら、
きっと料理は違う味に感じているはずです。

オーラが見える人と見えない人が一緒にいたら、
やっぱり感じる世界はまったく違うでしょうね。

私たちの不幸は、
すぐ隣にいる人と、同じものを見て感じて、同じ世界に生きているはずだ、
という思い込みから始まっているのかもしれません。

「あり得ない〜!」
という言葉はかなり頻繁に使われますが、
その人の価値観や感覚の中で「あり得ない」だけであって、
「あり得ない」行動をしている人にとっては、
「この行動をあり得ないって言うなんて、あり得ない〜!」
なことかもしれません。

あ〜なんか紛らわしいけど、伝わってますかね?
「死の町って表現するなんてあり得ない〜」
と思っているあなたは、
もしかしたら、隣にいる人に、
「やっと危険を認めた発言なのに、やめるなんてあり得ない〜」
と思われているかもしれません。

それぞれの感覚の違いをみんなが受け入れる世界ってどんなかなぁ〜
天国みたいな感じかなぁ…
意外に退屈だったりしてね。w

願いを叶える方法

あなたは今どんな願いを持っていますか?
クリキンディは、
「宝くじ当たれ〜!」とか、
「放射能消えてなくなれ〜!」とか
「ハワイに行きて〜!」とか
思ってます。
でもって、これらの願いを叶えるのはとっても難しいことだと思ってます。

あ、もうひとつ、こんな夢も持ってます。
「鳥みたいに大空を自由に飛びたい〜!」

どうやったら自由に飛べるのか、
鳥さんにインタビューしてみたら、こんな答えが返ってきたりして。

「え?どうやって飛ぶか?そんなこと考えた事ないし…。
それよりさ、ぼくは人間がやってるみたいなキャッチボールをしてみたいよ。」

せっかくなのでイルカさんにもインタビューしてみましょう。

「え?どうやって大海を泳いだり、水面に大きくジャンプしたりできるか?
そんなの考えたことないもん。
それより私はあなたたちみたいに、二本足で歩いてみたいわ。」

確かに、キャッチボールしたり、二本足で歩くのに、
脳のどの部分を使って、手や足のどの筋肉を動かして、
自分の中心から◯◯mmのところに動かして、
とか、考えてませんよね?
つまり、
ボールをつかむ、投げる、という行動(”願い”と置き換えて考えます)を
実行するのに、迷いはないし、頭で考えているわけではありません。
ボールをつかみたい、投げたい、という願いは、即時に自分で叶えています。

そう考えると、私たちは今までにも山ほどの願いを、
毎日即座に叶えながら生きていることになりますよね。
「寝たい、歩きたい、見たい、食べたい、伝えたい、etc……」
その中でも、もっとも大きな願いが
「生きたい」かもしれません。
クリキンディは、どうやって自分が心臓を動かしているのか、
どうやってこの世に生まれてきたのか、ぜんぜんわかりません。
だけど、生まれてからずっと
「生きたい」という願いを叶え続けています。

そんなの「願い」じゃないし〜!と思った?
宝くじとか、願ってもなかなか叶わないものを「願い」とか「夢」とか言うんじゃないの?
と思っているのなら、
あなたの「願い」「夢」は、「なかなか叶わない」ものになるでしょうし、
「血のにじむような努力をしてはじめて叶うものを願いや夢を思っている」のなら、
あなたの願いは「血のにじむような努力をしてやっと叶うもの」になると思いませんか?
自分が思ったように自分の世界は作られるらしいですから。

クリキンディは、
「宝くじが当たる」方法を知っています。
売り出されたすべての宝くじを買い占めれば必ず当たります!
だけど買い占めるだけのお金がありません。
っていうか、それだけあれば宝くじは必要ありません。
つまり、私の願いは、「宝くじに当たること」じゃなくて、
今お金があれば手に入れられるものを、購入するための大金が欲しい、
ということなのだから。

「放射能が消えてなくなる」方法は、うーん、今は知りません。
100万年経てばなくなるらしいです。
そっか、時間がかかるけど、これもオッケーじゃん!
いやいや、私の願いは「放射能の心配をせずに安心して暮らしたい!」です。

「ハワイに行く」方法も知っています。
船とか飛行機に乗ればいいんです。泳いで行く手もありますが…
いや、これも、ただ到着できればいいわけじゃなく、
ゆったりと自然に囲まれた島の雰囲気を味わいたい、ってことですから〜。

こうして考えると、私は、「願い方」を間違っていたのかもしれません。
「願い」という概念そのものを見直す必要がありそうです。

さて、ではクリキンディ、今から自分の願いを叶えてこようと思います。
まず椅子から立ち上がり、
スリッパを履いて、
歩いてドアを開け、
電気をつけて、トイレのふたを開けて…………

越智啓子さんワークショップ〜その2

つづきを書こうと思っていたけれど、
時間が経ってしまって、だいぶ忘却モードに入ってしまっています…。
がんばれクリキンディ、思い出すんだ!!!

<その1はこちら>

さて、第2部では、さらにインナーチャイルドを癒すために、
スケッチブックを使います。
クレヨンを使って、「父」「母」「自分」からイメージする絵を各一枚ずつ、
自由に書いていくのですが、
「左手で書いてね」という指定が!

ご存知の方も多いと思いますが、
右手は左脳と繋がっていて、どちらかといえば論理的思考をしやすい。
左手は右脳と繋がっていて、どちらかと言えば直感的な動きをします。

左手では絵も字も書きにくい〜!
だけど、その分「自分でも気付いていない自分」が出てくるのかなぁ、
なんて考えながら書いてみました。

クリキンディは、はっきり言って絵は下手ですが、
せっかくですので「自分」をテーマにしたものを公開しちゃいましょう〜

え?なんですかコレ?
んなもの自分でもわかりませんよ〜
絵の裏に思い浮かんだ言葉を書いて、と言われて
「わかんない、わかりたい」って書いてあります。

ワークショップでは、啓子先生が無作為に(しかし運命的に!)選んだ
3人のメンバーで行われます。
自分が書いた「父」「母」の絵を、メンバーに持ってもらい、
父や母のことを話します。
絵を持っているメンバーが、それを受けて、
「父(母)になったつもりで子供に話をする」
というまぁロールプレイングのようなワークショップなのですが、
これがなかなかビシバシと心の深いところに入ってくるんですね〜。

啓子先生いわく、左手で絵を描いたものを持ってもらうことで、
直感的な情報がワークショップのメンバーに伝わりやすくなるのだそうです。

ワークがはじまると、あちらこちらで解放の嵐が起きていたようで、
大量の涙や鼻水の処理のためw、
スタッフさんがティッシュボックスを持って会場を回ります。

この時組んだメンバーは、
もちろんはじめて出会った方ばかり、
ですが、間違いなく「ぴったり」のメンバーでした。
いろいろ話を聞いていると、
名前がリンクしていたり、誕生日と命日がリンクしていたり、
抱えている状況が似ていたり、読んでいる本が一緒だったり、
もっといろんなことをたくさん話してみたい〜
と思える人たちでした。

この日、クリキンディの友人が他に数名参加していたのですが、
やはり、それぞれに組んだメンバーとは、いろいろリンクしていたようで、
「袖すり合うも他生の縁」を実感した1日でした。

さて、さっきお見せしたクリキンディの「自分の絵」ですが、
数日経ってから、もしかして…?と気付いたことがあります。

実は、ワークショップの後、友人とお茶しながら感想を語りあっている時に、
「せっかくスケッチブックとクレヨンを買ったんだから、お互いの絵を書いてみよう」
ということになったんです。
クリキンディは、その友人を水面に浮く花にたとえて描いていたのですが、
なぜか、上の自分の絵とよく似た配置で、ふたつの花びらを描いていました。
(友人が描いたクリキンディは、雲の上にいる小さなふくろうでした)

なぜ、同じような色違いのものをふたつ描きたいのかなぁ…
と考えていて、ふと気付きました。
そうか!私自身、
「社会に適応しているふりをした自分」と、
「本来の自分」
のふたつの顔を使い分けているんだ!と気付いたわけで。

だから、「自分の絵」は、
なんだか「宇宙に浮かんだふたつの細胞」みたいな絵になってるんだなぁ、
と気付きました。
どっちも自分なんですよね。

もう一度絵を見てみましょうか。

チャクラカラーで分析してみると…
オレンジと水色のチャクラを使っているのが社会的な顔、
ピンクと緑のチャクラが本音の自分、
ってことじゃん!
これを統合できたら、どんなにかスッキリするんでしょうね〜
「わかんない、わかりたい」の答えも出るのかもしれません。

いろんなことに気付けたワークショップの覚え書きでした。
皆さんも、左手で絵を描いてみませんか?

心のコンパスに従って生きていたら、いろんなことが見えてきました。