戦うことをやめて調和して生きよう


今日は大雨注意報が出ています。
激しく降る雨音の隙間から、植え込みを刈り揃える植木屋さんのチェーンソーの音が響いてきます。
外で仕事する人は、雨でも雪でも暑くても寒くてもやらなくちゃいけない。本当に大変な仕事だなと思います。

植木屋さんは、きれいに咲き誇るアジサイを残して雑草を刈っていきます。
確かに見た目はスッキリした感じではあるけど…
いやなんか私の気持ちはスッキリしない〜

雑草という名の草はない

「雑草という名の草はない」
これは、昭和天皇の有名なエピソードです。天皇の言葉ではなく植物学者の発言である、という説もあるそうですが、この際「誰の」言葉であるかはあまり関係ないですね。

そもそもここで問題にすべきは「植物の名前」じゃありませんから。
名前は人間が分類上必要だからつけているものであって、植物の意思ではありません。

植物に意思なんかないだろ、と思う方も多いかもしれませんが、植物も生命体ですから、意思を持っています。
生えたいと思う場所に根を張ります。種がこぼれたらどこでも育つというわけじゃありません。

地球の意思

人間は、ひとりひとり魂があって、「個」の存在ですが、植物には「魂」のようなものはなく、すべての植物がひとつの大きな生命体のような生き方をしているのだそうです。
それはすなわち「地球の意思」と言ってもいいのかもしれません。

私たち人間はひとつの細胞からはじまり、分裂を繰り返しながら、様々な機能を持った肉体を作っていきます。
それはひとつひとつの細胞のすべてに設計図を持っているからできることであって、すべてのパーツは必要だからこの形に出来上がっているわけです。

地球はひとつの大きな生命体です。
そこに育つ植物も動物もすべて必要だから、こんなに多種多様な生命たちであふれているんです。
不要なものはひとつもないんです。

ただし「人間が栽培しているもの」を除く

砂漠に植樹しようという運動があります。
一見いいようにも思えますが、もしかしたら地球的には余計なことかもしれません。
例えて言うなら「足の爪の上に毛を生やす」ような‥?笑

一方で木を植え、一方で「見栄えが悪いから」雑草を刈り、
一方でダムや道路を作り、一方で畑を作る。

そもそも地球の意思にまかせておけば、ちゃんと必要なところに必要なものが育ってくるはずです。

チェルノブイリや福島などの、人が入ってはいけないとされた場所では、今となってはたくさんの植物が生い茂り、野生動物が戻ってきていると聞きます。

もともとの稲の原種は、台風などで倒れたりしなかったそうです。
そこに人間が手を入れて都合よく「栽培」するようになったら、途端に「手をかけないと生き延びられない」ものになってしまったのだそうです。

調和して生きるということ

いやでも…
水田や畑を作らないと人は飢えてしまうし、
雑草をほっておいたら家や道路は侵食されて崩壊してしまうし…

と心配になっちゃいますが
野生動物たちは、その自然の恩恵だけでちゃんと生き延びています。
飢えるとしたら、人間が森を壊したり川や海を汚してしまっているからだと思いませんか。

道路や建物が崩壊するのが地球の意思だとしたら…?
すべてのものは完成したその瞬間から崩壊に向かうのが自然です。
レジ袋が有料化されるのは、崩壊のスピードが遅く、野生動物や地球環境に不自然な影響を与えてしまうからですよね。

そろそろ地球と調和していきるということが、どういうことなのかを考える時期にきているのかもしれませんね。

その調和の方法を一番わからなくさせている原因は、
「お金」「経済のしくみ」
にあるのだと思います。

大西つねきさんの解説が本当にわかりやすかったので、またまたリンクしておきます。
みんなにこのしくみを知ってほしいなぁ〜


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