究極のシンパシー


ふたつ前に書いた記事<私はあなたの幸せを願っていただけなのに…>について、
友人と話していて、ひとつ気付かされたことがあったので、これも覚え書きを。

簡単にあらすじを振り返ってみます。
登場するのは、不幸な子供時代を送ったA子ちゃんと、
彼女にもっと明るく幸せになってもらおうと、がんばったB子ちゃんとC子ちゃん。
しかし、B子ちゃん、C子ちゃんの努力も虚しく、
A子ちゃんは、二人への恨みを募らせ、殺害してしまいます。

いったい、何をどうすればよかったんでしょうね〜?
友人と、いろんな推理をしてみました。

A子ちゃんは、あまりにも傷付き過ぎていて、
人の親切を受け入れるだけの余裕がまずなかっただろう、ということ。
例えて言うなら、散々虐待された野良犬が、
餌を与えようとしている人に向かって、噛み付いてしまうような…。

その餌が、本当に自分のものになる、おいしいものなのか、
それとも、それは罠であって、自分を痛めつけるために、見せているだけなのか、
もしくは、毒入りなのかもしれない、なんてことを、
あなたは、どうやって見分けますか?

直感を磨き上げている人ならいざ知らず、
普通は、その人の表情とか、言葉から読み取りますよね。
読み取って、過去のデータと照合、
安全なのか、そうではないのかを見分けます。

そのデータベースに、「人に優しくされた」「親切にされた」
という経験が極端に少ない場合、
やはり、噛み付く、という行動を選んでしまいそうですね。

B子ちゃんとC子ちゃんは、
傷ついているA子ちゃんのデータベースに、
「人に優しくされた」「親切にされた」という経験を増やしてあげたい、と考えていたはずですし、
実際にそのように行動したものと思われます。

ですが、A子ちゃんが本当に求めていたもの、
というか、親切にしてもらう前に、どうしても必要だった経験が、足りなかったのだと思うのです。
それは、シンパシー。

もしも、B子ちゃんとC子ちゃんが、
A子ちゃんと同じような、いじめの経験をひとつでも持っていたら、
きっとその接し方は違っていたはずです。

A子ちゃんの心の痛みは、同じレベルで理解してくれる人でなければ、癒すことができなかったのかもしれません。
それが、いつしか、
「私に親切にしてくれるなら、同じ痛みを分かち合えるはず」
という思いに至った可能性もありますよね。

「私は死ぬほど辛かったの。同じ気持ちを味わって欲しいのよ。」
それが、本人も気付かない、本当の殺害動機だったのかもしれません。

人の心に寄り添うこと、
その人の気持ちに寄り添い、
認め、受け入れる。

本当に難しいなぁと思います。
ついつい、「自分が正しいと思うこと」を主張してしまいがちな私。
ほんとに、人は死ぬまで学ばされるのね……

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